浜辺の診療室から

生の肯定と消去     死と向き合うこころ(その3)

動きが乏しくなった入院・入所者は、
ケアする総量が少なくなるのか、変わらないのか、それとも増えるのか。
その点は、意見が分かれるところかもしれない。
ケアを受ける側の要素もあるだろうが、
何を負担に感ずるかという、ケアする側の気持ちもあるからだ。 
 
ともあれ反応が乏しくなった老いびとは、やがて“老衰”の状態に入る。
顔色が悪くなり、傾眠状態になり、脈拍が微弱になり血圧が下がる。
終始ノドがゴロゴロいって、手足の色が悪くなる。 
 
そのときケアしているスタッフや家族の多くは、「急変した」といい、救急車を要請する。
行く先は病院だろうが、病院とは傾いたバランスを医療の力で立て直すところだ。 
だから受け入れた病院側は、「立て直れるのか」といぶかり、                                      
「立て直したところで、よいことだろうか」と迷う。
迷う理由は、生命つまり生きることに刃向っている、とのうしろめたさがあるからだ。

迷い、いぶかり、うしろめたさを感ずる理由を、ひとことでいってしまえば、
“生”への背信行為にある。
だから病院側は「施設や家族には、生に対する背信の念がないのか」
と怒る。けれども、搬送要請する側は、こう否定する。
「とんでもない。生きていて欲しいからこそ、つまりこのまま放置することは、
生きることへの背信行為だと思うからこそ、病院に送り込むのです」
そこには、生の肯定がある……少なくとも、あるようにみえる。
だとしたら、搬送準備に追われるだけで、手を握ることもなく、
髪をなでながら語ることさえしない理由は、どこにあるのだろう。
「行けないから、病院に送ってくれ」と、一方的に電話で指示してくる理由は、
どこにあるのだろう。 
 
わたしは、 “生”そのものが消去されてい・く・可能性を、密かに疑っている。
消去されてしまえば、肯定も否定もない。
“モノ”があるだけだ。 

 

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